松山市注文住宅|もし、わたしが生きていたら

<目次>
1.はじめに
私がこうやって、この記事を書けていること自体が不思議な話しですが、この事業を始めて私は直ぐに死にかけました。その意味が分かったので、ようやく筆をとることにしました。

私が、コージーベースという会社を始めたとき、6つの仕事をしていました。富士通にいた頃は、違う部署で、同時に5つ、6つのプロジェクトを進めていました。それくらい、今まで当たり前で仕事をやってきていました。 その後、広島県の経営企画アドバイザーに就任してからも、そこでも同じように複数の仕事をこなしていました。経営大学院(MBA)の新設、国の研究機関のプロジェクトのマネジメントアドバイザーから、戦後70年放置し続けた日本の漁業法を改革するための活動など、その仕事の範囲は多岐に渡ります。
公務員といっても、特別職であったので副業は問題ない職種でした。月に半分くらいの勤務日数の非常勤職であったため、残りの時間を大切に使っていました。
調子に乗りすぎて、自分の健康を過信評価して、天からストップが掛ったのが、この会社をスタートさせたばかりの時でした。

2.緊急搬送時点で死を覚悟していました
毎月1回、沖縄へ通っていたのですが、鹿児島から帰って、翌日に沖縄へ飛ぼうとしていた日の朝、背中に激しい痛みが走り、呼吸が困難になって救急車で運ばれることになりました。もし、飛行機に乗っていたら亡くなっていました。
愛媛県立中央病院病院のHCU病棟(高度治療室)で、麻酔で痛みを止め眠っていましたが、意識がもうろうとする中でも、運ばれてきた人のよどめき、悲痛な叫び声、目をつぶっていても、その後に亡くなったと気配が分かる場所でした。
もちろん、私も同じ運命になると思っていましたので、亡くなって人に迷惑が掛らないようにしたいと思いました。もし、自分が亡くなったとき、一番困るのは長野県茅野市に開園を予定していた保育園です。行政に送る資料の書類の書き方が分かる書類だけでも、順番に送っておけば、見てもらえば後は、なんとか分かるだろうと思いました。
そこでパソコンを使うため、個室に移らせてもらいました。兄などは断固反対しましが、これだけはやって置かないと迷惑が掛ると言って病床でゴリ押して、これだけはやらせて欲しいと頼みました。メールで大量のデータを送った後は、そのまま麻酔に掛けられて深い眠りに入りました。たぶん、おそらく、そのまま亡くなるのだろうと思っていました。
3.お父さん、ありがとう
すぐに息子3人が東京から呼ばれて、「お父さん、ありがとう」と言ってくれました。 『元気で、やれよー 』 と、別れの会話をしました。
これは、自分が自分の父親と最後に交わした言葉と同じでした。
同じ、県立中央病院の南西のコーナーにある個室で、数年前に自分の父親と交わした言葉と同じでした。そのときの父親の位置に自分が寝ていて、そのときの父親の気持ちが自分になっていました。
4.三途の川の手前で
意識がもうろうとするの中で、むかしの思い出の光景が次々と映像で頭の中で出てきました。そこに出てくるのは、「苦しかったときの記憶であり、それを乗り越えたから楽しかったんだよ」と浮かび上がる思い出を振り返っていました。
ふつうの人は楽しい思い出が浮かんで来るだろうか? 残念ながら、私は苦難を乗り越えた仕事の思い出だけでした。
自分が生きてきたから、世の中を変えたこと、いくつあるか、考えていました。
もし、生まれて来なければ、これも変わってなかっただろう。と、生きた証を探していました。生まれてきたお役目を果たしたように自己満足をしていました。
自分の体から魂が抜けて、抜け殻となる姿を上から見ることになるのだろう。
どんな姿なのか、気になって、自分の顔を写真で撮ってみました。
5.向こう岸から聞こえた声
もし、生きていたら何をしますか? 今世は満足でしたか? そういう声が聞こえてきました。
次に生まれて来れば、仕事ばかりしないで、もっと家族を大切にしておけば良かった。
生まれ変わっても、ふつう人と同じでは、面白くないかも。。。
また、同じことをやっている気がする。
いろんな仕事をして来て、楽しかった。ありがとう。という気持ちでいっぱいでした。
生きたという意味は、生まれてきて世の中に少しでも貢献ができたこと。
そういうことだと悟りました。
もし、生きていたら、、
やり残したことは、自分で会社を作ったコージーベースの仕事をやり抜くこと。
子供や大人が健康で暮らせる家を提供していくこと。
そう言って目を閉じました。
6.神様からの答え
目を開けると、まだ生きていました。
ベッドに固定されたままの日々が続いて、また、今日も生きていました。
数日が過ぎても生きていて、もしかして、生きる見込みが出てきたとき、
ほんとうは亡くなっていたのだから、白装束を着て四国八十八カ所を巡礼をしてみたい。
そう、思い始めました。
首を起こせるようになったので、スマフォで八十八カ所の順路や、必要な道具などを調べ始めるようになった頃、退院ができることとなりました。
7.拾った命だから、、、
コージーベースと同じような健康住宅を創業した社長も、死に際を対峙して会社が成長していったと退院後に聞きました。
創業以来、健康な空気の家を建て続けています。家を買って頂いて健康被害に遭われた方は一人もいません。家に住んで、喘息、アトピーが数ヶ月後で治った方はいます。
化学物質建材の家を買われて健康被害に遭われた方のリフォームを行い、健康を回復してきた方もいます。
全国から、住宅健康被害の相談、家を買う前の相談を頂くことが出来る会社になりました。
ホームページのアクセス数も年々、増え続けてきています。
もし、私が生きていたら、、、
私と同じように奇跡的な生還を成し遂げた方から、お花が届きます。
拾った命だから、困った人にお役に立てればと思っています。
8.ご参考まで(勉強会のお知らせ)
営業しない会社の健康住宅の勉強会をしています。
雑談ベースの会話を心がけていますので、お気軽にお越しください。
家の空気の化学物質測定サービス →https://www.cozybase.jp/event
家の空気の精密検査
家の空気の化学物質測定サービス → https://www.cozybase.jp/ew-c
≪記事執筆者≫
コージーベース株式会社
代表取締役 松本好司
松山市生まれ。富士通に在職中は社長表彰をはじめ26年間で28回の経営表彰を授与。
その後、広島県庁の特別職として経営企画アドバイザー、国の研究機関のプロジェクトマネジメントアドバイザー、公立大学の経営大学院(MBA)の新設などの公的職務を歴任。
その後、建築学科がある学校法人の顧問、専門委員などに就任し、科学的知見をもって健康で安心な保育園の設置アドバイザー、健康自然素材の注文住宅を行っています。
愛媛県で新築注文住宅をご検討の方、家についてお知りになりたい方は、いつでもお電話にてご予約ください。約2時間あれば、簡単に一通りのご説明は出来ます。
資料請求もホームページから承っております。